開発者 灰谷孝ブログ

発達が「トレーニング」ではない理由|ただいま絶賛発達中 発達する眼鏡イノチグラス

発達支援にトレーニングを持ち込んで来て、それをこどものためと宣伝しているのがキライです。なぜなら、トレーニングというのはその人本来の動きではないからです。 江戸の大人が子どもの発達のために眼の筋肉をトレーニングしていたでしょうか?縄文時代の大人が子どもの発達のために呼吸のトレーニングをしていたでしょうか?
答えはNOです!(たぶん) なぜなら、発達は日常生活の中にあったからです。 でも、剣術をマスターするために修行はしただろうし、吹き矢や弓が上手になるための練習はしただろうと思います。(たぶん) トレーニングは、特定の効果を目指した非日常的な行為で、 トレーニングは、そのための土台ができていて更に 上達をめざすために効果的です。 生活や遊びは、その人の全体の形成に関わる日常的な行為で、 それ自体が目的でもありプロセスでもあり、 その結果として発達があります。 上達と発達は違います。 分けて考えてみたほうがわかりやすいと思います。 上達は、特定能力の特定方向への最適化です。 発達は、凸凹の全体最適です。 具体的に一つの例をいうと、ビジョントレーニングをして目の筋肉を動かすのがうまくなったとしても、それによって呼吸を浅くし、聴覚過敏をし、僧帽筋や腹直筋を代償していることがあり得るわけです。 でも、30分でも1時間でも喜んでやっているシャボン玉遊びにおいては、フロー状態の中で全ての脳や機能を使い、筋肉や眼球運動や呼吸やそういう変化だけでは片付けきれない精神的な発達が起こっています。 では発達のためにトレーニングするはダメなことでしょうか? そんなことはありません。効果があります。 でも、限界があります。 重度の障害の方をずっと見ている支援者や、乳幼児からの発達を支援している方が、「トレーニング」と打ち出して人に勧めているのを僕は見たことがありません。 支援者が「トレーニング」を提供してそれで効果が出るのは、非支援者がある程度の高次脳制御を獲得しているからです。 ということは、トレーニングを提供し、非支援者がそれに従っている時点で抑制が働いているので、本当にクライアントの奥の奥のど真ん中には入っていないことの方が多いということです。 高次脳の抑制機能は結果として高度化します。そのために発達のプロセスでは抑制は一旦手放す必要があります。 でも、僕は本当に素晴らしい「トレーニング」を提供してくれる人を知っていて、そういう人は非支援者の「ニーズ」を踏まえて「今」必要な「新しい(好ましい)」動きを生み出していくのがとても上手です。 個別に最適化すればするほど、非構成的になります。 そして、非構成は最終的に、全体の最適に進化します。 全体が非構成になりカオスの中に秩序が生まれると、それまで構成的に秩序を保持していた社会のパワーは閾値を超えて、想像をはるかに超える発達が起こります。 発達だけでなく、家庭や、仕事場や、社会全体でも、基本おなじような法則になっていると感じます。 だから、支援者がラクをするには、また多くの人に模倣してもらうには、「トレーニング」という「構成」を作り出したほうが広がりやすいというメリットがあったりします。 「トレーニング」のように構成的にしたほうが良い状況があるんれすけれど、発達という観点ではずっとそれでは限界があるということと、それを支援者側のニーズでやってしまうことの危なっかしさを、発達に関わる全ての人に知っておいてほしいと思います。 日常生活をバージョンアップしていきましょう。 食事、子どもへの言葉がけ、洗剤、選挙の投票、子どもへの触れ方、寝る場所、電気の明るさ、そういうものを一つ一つ選んでいきましょう!!